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真実の弾道

― 賞金王・藤田寛之が初めて語る、自らの来た道―

Photographer © Taku Miyamoto

HIROYUKI FUJITA

第 6 回転機 ―― 芹澤さんとの出会い、そして初優勝

真っ暗な勝てない時期をくぐり抜け、僕はそこそこ勝てるようになった。予選会を勝ち抜き、ツアーの大会でも予選通過して少しずつ賞金を稼げるようになったのだ。だが、相変わらずシード選手にはなれないでいた。そんな時、

僕のその後を大きく変える現在の師匠、芹澤信雄さんに出会った。

■ 芹澤信雄プロ

出会ったと言っても、実際は、僕が意を決して芹澤さんに話し掛けたという方が正しい。僕はずっと芹澤さんに憧れていた。芹澤さんの連続写真を見ては「こんなスイングができるようになりたい」と思ったし、常に堅実なプレースタイルも好きだった。ただ、あまりにも雲の上の人だったので、同じ静岡県内にいながら話し掛けることができないでいたのだ。
1995年5月、僕は三菱ギャラントーナメント(現・ダイヤモンドカップゴルフ)が開かれる阿蘇プリンスホテルゴルフ場にいた。大会に出場する芹澤さんをクラブハウスで見掛けた時、僕は「チャンスは今しかない」と思った。勇気を振り絞って歩み寄り、「今度、練習ラウンドをご一緒させてください」とお願いすると、芹澤さんは「今から回るから来いよ」と気軽に誘ってくれた。
この時、僕は芹澤さんから4点ほどのアドバイスをもらっているが、その中の一つが「ドローではなくフェードを打て」というものだ。芹澤さんは僕のドローに、飛ばそうという気負いが混じっているのを見てとり、「そんな戦い方じゃ稼げないぞ」と助言してくれた。ゴルフは一打ではなく、トータル。それ以降、僕は国内ではずっとフェード一辺倒で通している。

■ 芹澤信雄氏を慕い、
集まるチームセリザワの仲間たち

僕が芹澤さんを師匠と仰ぎ、芹澤さんを絶対的に信じることについて、「どうしてそんなに信じられるのか」と問われることがあるが、僕には「信じられるから信じる」としか答えようがない。信じる、信じないは理屈ではなく、フィーリングなり直感なり、相手を本物と思えるかどうかにかかっている。ただ一つ言えるのは、もし芹澤さんと行動を共にすることがなければ、今の藤田寛之は存在しないということだ。芹澤さんを信じ、その背中を見つめ続け、僕はここまで成長できた。これ以上に確かなことは他にない。

■ サントリーオープンでの初優勝

この年と翌年はそれぞれ1千万円を超える賞金を稼いだ。そして、1997年9月、僕にとって一生忘れられないであろうサントリーオープンでの初優勝を迎える。
この年は春先からずっと調子が良かった。下部ツアーでも良い成績を収めシード権をほぼ手中にしていたし、当時行われていた後援競技でも優勝した勢いのある年だった。こうした流れの中、サントリーオープンでは68、68、66という好スコアで首位に立ち、2位と4打差で最終日を迎えた。

ここで、僕は初めて逃げるゴルフの怖さを味わうことになる。

最終組には、あのジャンボ尾崎さんがいた。前半9ホールは良かったが、後半の12番からジャンボさんは5連続バーディーを決めてきた。ギャラリーはジャンボさんの素晴らしいプレーに沸き立ち、僕は後ろからどんどん差を縮められる怖さに耐えるのが精いっぱいだった。誰もが、「ジャンボがあのルーキーをやっつけるだろう」と思っていたに違いない。それくらい、ジャンボさんの圧倒的な流れが会場を支配していたのだ。
最終18番は左ドッグレッグのロングホール。2打差があったので、僕はティーショットをフェアウェイに刻む安全策でパーをキープし、林越えのショートカットで最後まで攻めてきたジャンボさんを何とか振り切って優勝した。逃げる恐怖を味わい尽したので、その時の僕に勝った高揚感はなく、「終わった」という安堵しか感じられなかった。
グリーン上でジャンボさんが「おめでとう」と言ってくれた時、僕はようやく優勝した喜びを感じることができた。

そして、この日から僕の生活は180度変わった。

■ 優勝し、仲間たちからビール掛けで祝福される藤田

契約が増えて生活も楽になったが、何より自分がプロゴルファーとして本当の意味で認められた実感があった。2位と優勝は全く違う。その多くはたった1打のわずかな差で分かたれるのだが、両者の間にはとてつもなく大きな距離がある。これ以降、僕はいくつかの優勝を積み重ね、少しずつゴルフの本質を学んでゆく。だが、2位と優勝の間にある秘密について知るのは、もっとずっと先の話である。

 

次回:僕の支え ―― 仲間たち 3月21日(木)更新

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