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真実の弾道

― 賞金王・藤田寛之が初めて語る、自らの来た道―

Photographer © Taku Miyamoto

HIROYUKI FUJITA

第 4 回研修生時代 ―― コースが僕を育ててくれた

大学4年の夏合宿は袋井市にある葛城ゴルフ倶楽部で行った。当時、僕はゴルフ部副将を務めていたので、最終日には支配人にご挨拶に行き、「プロを目指すなら、うちへおいで」という温かい言葉を掛けてもらった。また、当時から専修大ゴルフ部の名物部長だった岡村誠男さんに葛城をご紹介頂いた縁もあり、1992年2月から葛城の研修生として雇ってもらえることになった。

■ 研修生時代から藤田がホームコースにしている葛城

研修生の仕事はマスター室とフロント業務で、僕はそれを一カ月交互に担当した。業務は午前7~11時か午後2~6時のどちらかで、それ以外は練習に専念できた。朝は夜明けとともにパッティング練習やトレーニングを行い、業務の前後にコースを回った。僕の人生の中で最も死に物狂いになって練習した時期だが、夜8時には切り上げてアパートへと帰った。

この頃、僕は大学ノートに日記をつけている。それまで日記なんてつけたことはなかったし、これ以降もないが、研修生時代の僕は何か思うところがあったのだろう。アパートの万年床の枕元にノートを置いて、日々の出来事を綴っていた。日記は「今日、40打った」と一行だけのこともあれば、試合で悔しい思いをして2ページ以上にわたる日もあった。その中で、僕は何度か「自分は何のために頑張っているのか」「誰のためにプロを目指すのか」と自問したことを覚えている。

■ 藤田の定位置は鏡の前の打席-研修生時代はここで800球近く打っていた

こんな気持ちでいいのか?
こんな練習で通用するのか?

そうして自分を奮い立たせる原点にはやはり、一生懸命働いて僕を大学へやってくれた親への思いがあったのだと思う。

両親が僕を育ててくれたように、葛城というコースも僕を育ててくれた。大学4年の夏合宿で葛城を訪れたとき、僕は「全体的に難易度が高いな」と思った。特に山名は難しい。研修生として葛城で過ごすようになってからも、その印象は変わらなかった。登りの多い山名のinコース。当時の僕は16番のティーショットが苦手だった。左のOBが気になるのだ。ほかにも13番の右のバンカー、15番のバンカーと、気になるポイントはたくさんあった。それが、今ではそのすべてのハザードを僕のボールは越えていく。この葛城というコースに鍛えられ、たくさんの人に守られながら、僕が成長できたということだろう。

葛城の研修生になって8ヶ月後、プロテストを受けた。
静岡県でトップになって関東予選に進み、十分合格ラインを維持していたのだが、終盤、僕は誤球してしまい、ペナルティで一気に当落ライン上まで落ちてしまった。一瞬ヒヤリとしたが、上がり3ホールを3連続バーディーで決めて本選へと進んだ。
迎えた本選も最初の二日間は調子が出ず、3ホールを残して予選通過は厳しい状況だった。「今年はダメかな」とチラリと思ったが、今回も上がり3ホールをバーディー、パー、バーディーで切り抜け、ギリギリで予選を通過した。

その晩遅く、僕は泊まっていたペンションの公衆電話から家に電話を掛けた。父は不在だったが、母に「予選通過したこと、父さんに伝えといて」と言っているところへ帰ってきた。電話に出た父は酔っていた。どうやら、息子の予選通過は厳しいと踏んで飲みに出掛けていたようだ。
「どうだった?」と聞く父に、僕は「通ったよ。ギリギリね」と報告した。本当に軽く報告したのに、父は「そうか」と言って黙り込み、そのあと、「今年はそれでいい。予選を通過しただけで十分だ」と泣き出してしまった。
電話口から伝わる父の涙を感じながら、僕は、ああ、この人はまた僕のために泣いている、と思った。
「何言ってんだよ、親父、バカだな。まだ、あと2日あるんだぜ」。
言葉と裏腹に、僕も泣いてしまいそうだった。

■ 今も、キャディバッグを担ぎ練習に明け暮れる藤田

父の涙は今回も、僕の心を強くした。
翌日は68か69をマークし、最終日も大体パープレーくらいに納めて、僕はプロテストに一発合格することができたのだ。

張りつめていたものがほどけて、僕は「プロになった。これで一生、楽に暮らせる」と思った。今、思えば、笑っちゃうくらいバカな思い込みだが、その時はそう信じていた。もちろん、そんな思いはその後、あっという間に打ち砕かれてしまったのだけれど。

 

次回:勝てない時代 ―― 「ゴルフが怖い」  3月6日(水)更新

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