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真実の弾道

― 賞金王・藤田寛之が初めて語る、自らの来た道―

Photographer © Taku Miyamoto

HIROYUKI FUJITA

第 3 回高校~大学時代 ―― 父の涙

■ 高校時代の藤田寛之

高校進学後、僕は野球をやめた。高校でも野球を続けるつもりだったが、進学した学校の野球部があまり強くなかったため、どうしても入部する気になれなかったのだ。この頃には自分にとってゴルフの存在が大きくなっていて、もっとゴルフの練習をしたい気持ちもあった。そんな時、父の紹介で週一回、久山カントリー倶楽部でキャディのバイトをすることになった。

キャディをすると、その他の日は好きなだけコースを回らせてもらえるので、夏休みは40日間、毎日ゴルフ場で過ごした。朝、起きると自転車で20分かけてバス停まで行き、始発のバスに飛び乗った。ゴルフ場では、練習場でアプローチ練習をしたり、プロバッグを担いで研修生と一緒にコースを回る。真夏に汗をダラダラ流し、ひたすら同じことを繰り返す毎日だったが、この頃も僕にとってのゴルフは楽しいものでしかなかった。「もっと上手くなりたい」という気持ちに突き動かされて無我夢中で過ごしたような気がする。

高校時代は積極的にジュニアの大会にも出場した。高校1年の終わりに、僕は『全日本高校ゴルフ選手権大会九州大会』で手嶋多一さんとプレーオフの末、2位になった。このため、続く夏の大会の優勝候補と目され、新聞にも「藤田が最有力」などと書かれていたのだが、結論から言うと、この時は全く駄目で全国大会に進むことはできなかった。父が運転する帰りの車の中で、僕はふて腐れて窓の外を見ていた。疲れていたし、イライラもしていた。
すると、いきなり父が「お前、悔しくないのか?」と聞いてきた。その声の調子にギクリとして運転席を向くと、やはり、父は運転しながら泣いていた。ハンドルを握り、前を向いたまま、涙をボロボロこぼして泣いていたのだった。

この時、父に何と返事したのか覚えてはいない。無言だったか、「悔しいよ」とでも答えただろうか。いや、交わした会話などどうでもいい。重要なのは、僕の代わりに悔しがって涙まで流す親父の姿が、間違いなく高校生の僕の胸に沁みた――という事実である。言葉はその場限りで消えてしまうが、この時の空気とか父の姿を僕は決して忘れることはできない。
父の涙には後にもう一度出会うことになるが、それはもう少し先の話としよう。

ともあれ、高校時代の僕はキャディのバイトで稼いだ金でスパイクを買い、グリップを替えて、自分なりの練習を積み重ねた。3年間の夏休みは毎日、久山カントリーで過ごし、それでも足りない部分は家の近くの公園に勝手にネットを張ってアプローチ練習をして埋めた。
高校3年の『九州ジュニアゴルフ選手権競技』では上位入賞し、『日本ジュニア選手権競技』へと進んだ。この時は全国4位の成績を残し、おかげで特待生として専修大学へ進学することができた。大学へ進学する際、父は「金が続かなくなったら帰ってきてくれよ」と、笑って僕を送り出してくれた。

大学1、2年の二年間については、あまり語ることがない。都会の暮らしが楽しくて、ゴルフより友達と遊ぶ時間を優先していた。ボウリングやカラオケをし、渋谷に出掛けるといったごく一般的な大学生活を満喫していたのだ。
3年になると、さすがに将来を真剣に考え始め、初めて「自分にはゴルフしかない」と思い至った。それから、今まで以上に部活に身を入れるようになった。

■ 藤田の特待生入学に尽力した専修大ゴルフ部の岡村誠男部長 >

■ 専修大ゴルフ部の部室-今も藤田の在学当時と変わらぬ佇まいを見せる

大学ゴルフ部の練習は夜明けとともに始まる。寮のそばのアプローチ練習場で午前7時まで練習し、駅の近くの吉野家やコンビニで朝食を済ませた。午前中は授業などもあり、昼には「昼集(ひるしゅう)」というミーティングがあった。午後3時から4時の一時間は、ゴルフ部が利用させてもらっているゴルフ場で奉仕作業をする。「目土(めつち)」といって、お客さんのディボット跡を砂で埋めていくのだ。午後4時から日没までは練習。夜も提携の練習場で練習することができ、最後に球拾いをして一日が終わった。

高校・大学時代に、人は楽しさに流されて寄り道したり、時に迷ったりしながら徐々に自分の将来像を確かなものにする。僕の場合、それがたまたまプロゴルファーだった、というだけの話だ。

 

次回:研修生時代 ―― コースが僕を育ててくれた  2月27日(水)更新

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