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真実の弾道

― 賞金王・藤田寛之が初めて語る、自らの来た道―

Photographer © Taku Miyamoto

HIROYUKI FUJITA

第 1 回少年時代 I ―― 野球と、釣りと、父の6番アイアン

■ 小学生の頃の藤田寛之

幼いころの思い出というのは曖昧で途切れ途切れの断片が点在するだけで、今思い出そうとしても忘れてしまったことが数多くある。それでも、小学生のころに夢中になった野球や釣りにまつわる記憶、両親や友人と過ごした日々の記憶、当時感じた嬉しさや切なさといった感情のいくつかは、今も僕の中に確かに残っている。

僕が生まれたのは福岡市東区香椎という町で、小学校の近くの集合住宅に両親と3人で暮らしていた。父は頑固で亭主関白な古いタイプの男、母は黙ってそれに従うという、これまた古いタイプの女性だった。当時、僕は地域のボーイズリーグ(野球)に所属していた。練習はきつかったが、野球が大好きだったので自転車で一時間もかかるグラウンドへ熱心に通い、時折、父親が見に来てくれていた。父はまた、僕に釣りの楽しさも教えてくれた。休みの日にはハゼやボラを釣りに海へ連れて行ってくれたし、ちょっと足を延ばして佐賀県まで黒ダイを釣りに行ったこともある。

野球のない平日は家の近くの小さな川で友達と釣りをすることが多かったが、小学校高学年になると、僕らは小さな川では飽き足らなくなってしまった。もっと大きな川、もっと大きな池で釣りをしたいと思ったのだ。当時、「子どもだけで校区外へ出掛けてはならない」という規則があったが、ある日、ついに僕らはバケツと釣竿を積み、自転車で2時間もかかる地域へこっそり出発した。
釣ったのはコイだったと思う。夢中になって時が過ぎ、家に帰りついたのはすっかり日が暮れた後だった。当然のことだが、母親にばれてひどく叱られ、罰として家の外に出るように言われた。僕はたぶん、心細かったのだと思う。帰宅した父に事情を話し、「大丈夫だ、家へ入れ」と言われた時には心底ほっとした。その日はずっと父親の後ろに隠れて過ごした。それでも、「母さんだって好きで僕を外に出したわけじゃない。いつ入れてあげようかタイミングを計っていたんだ」ということは子供心にちゃんと分かっていた。

父も母も、むやみに「あれをしろ」「これはいけない」と言う人ではなかった。ただ、父は、自分がやると決めたことをやめる時には、必ずその理由を求める人だった。やめたいという気分だけで許してくれることはなく、後にボーイズリーグを辞める際にも、まだ中学生の僕にその正当な理由を求めた。一人の人間として僕に向き合い、理由に納得した後は、一緒にボーイズリーグの世話人のところへ挨拶しに行ってくれた。

■ 野球に夢中だったあの頃。円陣を組む時は、キャプテンとして中央で声を出していた。

僕の小学校時代はこんな風に野球と釣りに彩られて過ぎて行ったのだが、そんな小学校6年のある日曜日、ゴルフがふっと滑り込んできたのである。

その日、僕は小学校の校庭で野球の的にボールを当てる練習をしていた。すると、友人のスエツグがやってきて、ゴルフクラブでボールを打ち始めたのだ。「それ何?」と聞くと、「ゴルフだよ」と言う。クラブを借りて一緒に遊ぶうちに、うちの玄関の片隅にもこんなクラブが入った大きな入れ物が置いてあるのを思い出した。白と紺の古ぼけた、父のキャディバッグである。
その日から、僕は時々、父の6番アイアンを持ち出して校庭でゴルフのまねごとをするようになった。校庭に人がいるときには、一人で広い空地を探し、ボールを打っては拾いに行くだけの行為を延々と繰り返した。なかなか当たらないけれど、何発かに一発、芯を食う当たりが出ると、野球のホームランより遠くに飛んでいくのが面白くてしょうがなかった。父の6番アイアンがどんなフォルムだったか、どんな音をたてたか、今から思いだすのは難しい。しかし、ボールを打つ時の感触だけは、今もこの手が覚えているのだから、記憶というのは不思議なものだ。

相変わらず生活の中心は野球だったけれど、その合間にゴルフ遊びがまじるようになった――それが、僕の小学校時代の風景である。

 

次回:少年時代 II ―― クリスマスのサンドウェッジ  2月13日(水)更新

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